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切り落とされた「その先」はどこに向かうのか(踊場海月『散歩する侵略者』劇評)山口真由

  • 執筆者の写真: odoribakurageinfo
    odoribakurageinfo
  • 2月21日
  • 読了時間: 6分

2025年12月19~21日中野スタジオあくとれ(東京・中野区)にて上演された踊場海月第二回公演「散歩する侵略者」(作・前川知大)の劇評を公開いたします。

→公演概要はこちら


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宇宙人が奪いに来なくても、「概念」は失われる。初演から20年を経た2025年に『散歩する侵略者』を観劇して、そんなことをふと思った。

『散歩する侵略者』は、劇団イキウメの劇作家・演出家である前川知大による戯曲で、2005年に初演され、再演を重ねてきた。地球の「概念」を収集する宇宙人の襲来という、独特かつ秀逸の設定から紡がれる人気作であり、2017年には黒沢清監督により映画化もされている。

 2025年12月、踊場海月による上演を中野スタジオあくとれで観劇した。

 

 主人公の鳴海は、ある日突然失踪し、幼児退行したかのように人格が変わってしまった夫・真治に戸惑いを隠せない。彼は宇宙人に乗っ取られ、「散歩」しつつ出会った人に問答をもちかける。

 「”家族“って何? ”時間”って何? おしえてよ」というふうに。

 相手がそれを明確にイメージしたとき、宇宙人は概念を奪い、奪われた人間からは概念が失われる。

 


 ブラックボックスの劇場空間に、白い壁紙で、リアス式海岸のように凸凹した輪郭の空間が切り抜かれた舞台美術。

 何者かが食い散らかしたあとの歯形のようでもあり、不穏な空気が漂う。白いボックスがいくつか置かれ、椅子やテーブル、車などに見立てられる。

 天井からは何本もの赤いひもがだらんと垂れ下がる。

 宇宙人が奪うたび、大きなハサミでそのひもをチョキンと切り落とすことによって、「概念」の喪失が視覚的に表現され、何かが失われたことがわかりやすく見てとれた。



 『散歩する侵略者』において、奪われる概念はもともと「奪われてはならないもの」としての堅固さが前提されていた。

 家族の結びつきや愛、自己と他者の区別。

 それらは揺らぐことのないはずのものであり、だからこそ概念が失われたとき、その上に成り立っていた人間関係が被るダメージは大きい。

 しかし今回の上演を観ていると、劇中に前提された概念は現代、すでに失われているのではないかという気がしてくる。



 中野スタジオあくとれの、膝つきあわせるような至近距離で観ると、この物語を成立させているのが、「一緒にいることの当然さ」を前提とした、非常に親密な人間関係であることに気づく。一緒にいるのが当たり前、助け合うのが当たり前。

 だからこそ鳴海は、日常生活のおぼつかない真治を連れて毎日のように実家に戻り、彼女の義兄である浩紀はそれを「家族なんだから当たり前」とみなす。


 一方、「血縁」の概念を奪われた鳴海の実姉・明日美は、「どうして毎日やって来るのか、いい加減にしてほしい」と混乱をきたし、真治から目を離さないでほしいという鳴海に「あなたが思うよりしっかりしてるんだから大丈夫だ」と言う。

 そんな明日美に、周囲は違和感を覚える。ただ現代の感覚からすると、鳴海や浩紀が当然としている家族の距離感は、家族ぐるみで背負い込み、内うちで解決することを前提とするかのようで、やや緊密すぎるようにも思われる。

 それに苦言を呈する明日美の言い分も、あながち理不尽ではないとも思えてくるのである。

 客席でふと、明日美のイメージした「家族」の概念と、わたしの思う「家族」の概念とは、もはや違っているのかもしれないなと考えた。


 出演者の演技は、戯曲の親密な家族関係に対して、どこか依存しあわない距離感を保っているように見えた。

 家族に対しても、友人に対しても、そして初めて出会う人に対しても、どこか気安く、同時にどこか踏み込みすぎない一線がある。

 意図的なものというより、それが現代の日常感覚、肌感覚ということなのかもしれない。



 一方で彼らはドライな一面も見せ、凄惨な殺人事件(実は他の宇宙人によるものであることが、後に明かされる)のニュースを聞いても、肉眼で見える距離に隣国からのミサイルが飛んできていてもあっけらかんとしている。

 その様子は、不穏さをたたえた舞台上の様子との対比で不気味にも見える。

 まるで治安や平和の堅固さが、すでに失われているとでもいうようである。舞台上に垂れ下がる赤いひもは、この点でも象徴的である。

 ひもは力なくだらんと垂れ下がるのみで、どこにも結び付いておらず、複雑に絡みあうこともない。

 宇宙人にチョキンと切り落とされる前から、すでにその先は失われていたのではないかとさえ思えてくる。 


 

そんな中、劇中でもっとも力が漲っていたのが、戦争を待ち望む声である。そのシーンには歪な衝撃を感じた。

 作中全編にわたって、戦争の影は登場人物たちの住む街を覆う。

 もっとも、『散歩する侵略者』に描かれた戦争は、どこか概念的である(そういえば、劇中で宇宙人が「戦争」の概念を奪うことはついぞなかったが)。

 


 宇宙人に概念を奪われるひとりとして登場する丸尾は、ニートとして日々を送りつつ、元同僚の長谷部とともに目を輝かせて戦争を語り、ミサイルに歓声をあげる。

 丸尾は失業者、長谷部も非正規雇用で、未来に行き詰まりを感じている。

 もうすぐきっと戦争が始まる、そうしたらこのくだらない社会がリセットされる。

 だからこそ彼らは戦争を待ちわびる。

 ただ、そこで待ちわびられていたのは、おそらく現実の戦争ではなかった。

 『散歩する侵略者』に描かれた戦争。

 それは、「現実には(日本で)戦争が決して起こらないであろうこと」に対する、無邪気な信頼に下支えされた願望の中のものに他ならなかったのではないか。

 決して訪れないであろう終焉を、訪れないからこそ無邪気な希望として持っていられた時代。

 当時と比べて日常的に戦争のニュースが流れる現代、戦争が決して「こうなったらいいな」と語れるものではない現代において観ると、戦争にはしゃぐ丸尾の姿はどこか生々しく、その歓声にはギョッとさせられる。

 そして丸尾の望んだ戦争は、決して社会をリセットするものにはなりえなかったのだと、生々しさの中で思わざるをえなかった。

 


 ちなみに劇中でもうひとり、行き詰まりを抱え、「リセット」を願っていたのが鳴海である。

 宇宙人に乗っ取られる以前、真治の浮気によって夫婦生活はすでに破綻していた。

 だが真治がすっかり変わってしまったことで、その破綻はうやむやにせざるをえず、「わたしもリセットするから」と鳴海はつぶやく。



 だが結局、リセットはなされない。

 宇宙人の帰還が迫ったとき、鳴海は最後に自分の「愛」の概念を奪わせ、新しい二人の日々は長続きせずに終わる。

 切り落とされたひもの先はプツンと途切れて失われるだけで、決して「その先」が生えることはない。

 鳴海の望んだリセットも、丸尾の望んだリセットも、結局は完遂されず、新しい希望をもたらすものにはなりえなかった。



 

時を経た2025年という時代は、完遂されなかったリセットの、その後に続く時代である。

 気がつけば人と人の結びつきは変化し、戦争に対する肌感覚も変わっている。

 劇は宇宙人が街に放たれたまま終わるが、宇宙人が奪わなくても、概念は失われるのだ。

 愛を失った鳴海が「意外と平気だ」というように、なくしたことに無自覚なままの概念もきっとあるのだろう。

 ではわたしたちは「その先」を、どのように生きることができるのだろうか。

 静かな終幕に、自問を繰り返した。



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山口 真由


俳優。演劇ユニット7度所属。第15回せんがわ劇場演劇コンクールグランプリ・俳優賞、豊岡演劇人コンクール2021 優秀演劇人賞を受賞。短編戯曲や劇評の執筆など、幅広く活動を行い、第28回シアターアーツ賞佳作受賞。作品から社会を見通す視点をこころがけている。

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